現在公開中のA24配給の女性監督による自伝的映画『Never Goin’ Back』。無軌道でハチャメチャな10代のギャル達の生き様が描かれた、このストーナームービー史に残る新たな傑作の魅力について、話題のSF(Soulful)作家 “山塚リキマル” によるレビューを紹介します。
Text by 山塚リキマル
これから『ネバー・ゴーイン・バック』という映画のレヴュウをしようと思うのだが、そのまえにひとつ、質問させてほしい。
財布に2000円しかなくて、これを使ったら明日の暮らしさえままならなくなるという状況にもかかわらず、友達と連れ立ってクラブやライヴハウスや居酒屋に遊びに行った経験、があるかね?
『ある。超ある。ていうか毎月ソレ』と即答されたアナタ、アナタはこの映画に選ばれている。何がなんでも絶対に観てほしい。86分の本編中、“めっっっちゃわかる!!!”とシンパシーを感じまくるハズだ。とにかく全編、共感しかない。というかもはや既視感(デジャヴ)といってもいい。ストリートで汚く遊んだ経験のあるヒトなら、映画内のあらゆるシークエンスで「この光景、見たことある!」と思うだろう。
バイト前にパーティーに誘われて「いやでも制服洗濯しないと~」とか言って断ろうとしたら「ウチで洗濯すればいいじゃん」って返されて一瞬寄っちゃうみたいな流れとか、スーパーで偏屈なジジイにすれ違いざまに悪口言われて一旦は無視するけどあとで腹立ってきて文句言いに行く流れとか、もうとにかく全部見たことある。全部知ってる。これほど解像度の高い“あるある”が繰り出されると、楽しいとか面白いとかではなく、シンプルに『嬉しい』。そういう嬉しさがこの映画には凝縮されている。
シェアハウスに暮らすギャル二人組が、家賃を突っ込んでリゾートビーチのヴァカンスを企て、それを補填するべくバイトのシフトをめちゃくちゃ入れまくる(しかも二人とも同じ職場)。という冒頭からして既に最高すぎるワケだが、本作はいわゆる“ストーナー・ムービー”である。
これはすげえ大雑把にいうとマリワナと相性の良い映画のことで、ストーリー的には“ドラッグやってワヤする下品で不道徳なコメディ”が多い。
このジャンルは70年代から存在していて、具体例を挙げると『チーチ&チョン スモーキング作戦(1978)』とか『ポップガン(1996)』とか『ハーフ・ベイクト(1998)』とか『ビー・バッド・ボーイズ(2001)』とか『ジェイ&サイレント・ボブ 帝国への逆襲(2001)』とか『アリ・G(2002)』とか『ホット・ロッド(2007)』とか『ヤバすぎファミリー 毎日がパラダイス(2008)』とか『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い(2009)』とか『21ジャンプ・ストリート(2012)』とか『プロジェクトX(2012)』とか『世界の果てまでヒャッハー!(2015)』とか『ナイト・ビフォア 俺たちのメリーハングオーバー(2015)』とか枚挙に暇がないワケだが、その系譜に属するのがこの『ネバー・ゴーイン・バック』である。
女子二人組を主人公に据えた不道徳青春コメディということで、『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー(2019)』を想起する方も多いと思うが、この二作は全っ然ちがう。まるで似ていない。
まず『ブックスマート』は主人公の二人がいわゆるナードな優等生なのに対し、『ネバー・ゴーイン・バック』はチャキチャキのアッパー系ギャルだ。高校中退してるしキメてバイト行くし、とにかく無軌道でハチャメチャな日々を謳歌している。また『ブックスマート』はリベラルな価値観と社会学的な視点を持ち合わせていたが、『ネバー・ゴーイン・バック』はそうしたメッセージ性を表層に打ち出すこともない(舞台背景やガジェットをつぶさに観察すれば色々と深読みも可能だが、あくまで裏テーマでしかない)。
なにより、キャラクターの変化や成長をきちんと描き、笑いアリ涙アリの娯楽映画の骨法に準じていた『ブックスマート』に対し、『ネバー・ゴーイン・バック』は徹底的に破綻している。ギャル二人組は最後まで反省も成長もしないし、バディムービーにつきものの関係の亀裂/修復さえもない。“映画だったら普通、こうなるよね”というパターンを一切踏襲しないまま、はしゃぎにはしゃぎまくってエンディングまで一気にブッチぎる。
じつはシスターフッド・コメディのオルタナとして支持された『ブックスマート』より、本作は一年先駆けているのだが、そうした評価を受けなかったのも納得だ。だってブッ壊れすぎだもん。清々しいほどに。反省も成長もせず、娯楽映画のパターンをガン無視し続けるという脚本構成は『ビーチバム まじめに不真面目(2019)』にも先駆けているが、ハーモニー・コリンの映像感覚や音楽センスによって奇妙な統一感がもたらされていたアレとは違い、本作は徹頭徹尾ぐっじゃぐじゃである。とことん行きあたりばったりなのだ。なんの予定も立てずに友達と合流して、思いつくままアチコチ顔を出していたらウケる事件が起きまくって、でも最終的には一切何も覚えていない。という『遊び』の行きあたりばったり感が、完全に映画化されているのである。
この空前絶後の“行きあたりばったり感”に比肩しうるのは、四十余年の歴史をほこるストーナー・ムービー史においても『ヒューマン・トラフィック(1999)』ぐらいのものだ。かの『トレイン・スポッティング(1996)』に対するアンサーとして作られたこの映画は、ストーリーらしいストーリーは特になく、クラバーの若者たちが週末ブッ続けで遊びまくる様子をただひたすらに描いた作品なのだが、『ネバー・ゴーイン・バック』にとてもよく似ている。なにが似ているのか。ストリートで汚く遊んだ経験のあるヒトにだけ強く訴えかける、圧倒的な共感性である。
たとえば『ヒューマン・トラフィック』は、“カネないから今日行くのやめとくわ~”という友達を「とりあえず来い!絶対何とかなっから!」と説得してパーティーへ誘い込むとか、クラブで自分の彼女と男友達がイチャイチャして(いるように見えて)ケンカが起きるとか、日曜の朝方に帰ってきて一回寝て夕方ぐらいにまた合流して飲み出す流れとか、「うぅわ、わかる~~」と唸ってしまうようなシークエンスが矢継ぎ早に繰り出される。このリアルさは、ストリートで汚く遊んだ経験がある人間にしか解らないし、出せない。この圧倒的なリアリズムによって『ヒューマン・トラフィック』はクラバーのアンセムとなり、孤高のカルト映画として君臨し続けてきたワケだが、それから20年、ついにこのリアリズムを受け継ぐ作品があらわれたのである。感無量だ。どこまでも無責任で無敵な彼女たちの生き様を、ぜひ体感してほしい。
いつの時代の、どこの国でも、こーゆー若者がいる。とにかくバカでビンボーで、それでも遊ぶことをやめない享楽主義者たち。かつてジョン・レノンは『楽しんで無駄にした時間は無駄じゃない』といったが、こんな時代で楽しんで生きるというのは、それすなわち戦いである。ワタシは今夜もきっと戦うだろう。2000円しか入ってない財布を握りしめて。
山塚リキマル(ヤングラヴ/中華一番):
北海道産まれのSF(Soulful)作家。自身の体験と文脈をMixさせSoulを吹き込み文字にGrooveを宿す作風で各地にファンを産み出している。
自身による著書『T.M.I』超絶完売中→ http://yamatsukarikimaru.stores.jp
また和製AOR/シティポップバンド”ヤングラヴ”のフロントマン/Producerであり、札幌伝説のストリートチルドレン集団”中華一番”のメンバーでもある。
『Never Goin’ Back / ネバー・ゴーイン・バック』
Director&Writer:
Augustine Frizzell
Staring:
Maia Mitchell, Camila Morrone, Liz Cardenas, etc
Distribute:
A24(日本国内: REGENTS)
https://nevergoinback.jp/
関連ページ:
『Never Goin’ Back / ネバー・ゴーイン・バック』 オーガスティン・フリッゼル監督インタビュー/Interview with Augustine Frizzell about “Never Goin’ Back”
https://www.neol.jp/movie-2/118540/
『Never Goin’ Back/ネバー・ゴーイン・バック』オーガスティン・フリッゼル監督 人生を楽しむことを自分自身に許す【Director’s Interview Vol.270】
https://cinemore.jp/jp/news-feature/2761/article_p1.html
[JP🇯🇵]山塚リキマル
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